旧いバイクの魅力にとりつかれたことがある。いわゆる「旧車」だ。
ヨーロッパ製の往年の名車たち。それらの何十年も前のメカニズムが語りかけるものは、受け取る側にとってさまざま。共通しているのは、何かが"宿っている"ということだと思う。時の流れの中で、その何かはいつしか磨き込まれて、新たな価値感に訴えかけたりする。それは、例えば画家が没後に評価される・・・その種の現象に近いと思う。
金属の塊に吹き込まれている何か。自分にとって、それはアナログなメカニカル感覚であったり、手仕事を感じさせるクラフトマンシップであったりするが、その何かによって、乗った時、走らせた時に得られる感覚は、乗り手にとって唯一無二のものとなる。
"音"も大きな要素だ。静かであること、スムーズであることなどは基本要件となりえない。排気音はいうにおよばず、メカニカルノイズでさえ"快感"を生む引き金となりうる。メカニズムが優れていることと、走って楽しいこととはイコールではない。そこが面白いところなのだ。
だが、現実派の自分は、旧車を所有するにいたらなかった。経済的な事情もあったが、今にして思うと"日常"を重視した結論だった気がする。代わりに、その血統をひくヨーロッパのバイクを選んで乗るようになった。"非日常"の大きな快感よりも"日常"の快感の連続を選んだわけで、それはものぐさな性格の自分にとっては多分正解だったと思う。
世界に名だたる我が国4大メーカーのバイクは素晴らしい。プロダクツとしてほぼ完璧に近いことは疑いようがなかった。だが、製品としての完成度は高くても、当時の自分には満たされないものが残ったことも事実。それが何だか未だにわからないのだが、単なる懐古趣味なのか、ナンバーワンよりオンリーワン的な価値観なのか、あるいはもっと感性の奥底の何かなのか・・・年齢を重ねた今となっては、確認しようがない。
#写真は、ベロセット・スラクストン。イングランドにて / June,1986 ; Leica R4S+28mm
※旧車の魅力を写真家の立場で追い続けたOさんが他界された、と何年か前に風の便りで聞いた。旧車の魅力を知ったのは、このOさんあってのことだった。あちこちにご一緒させていただいたことを懐かしく思い出す・・・合掌